Toward the Sea of Contradictions - Mariko Takeuchi
写真がこうした傷の経験を生み出す可能性を内包しているのは、端的に言って、写真が異物そのものだからである。
十九世紀前半に誕生したこの視覚装置は、人間とはまったく異なる方法で世界を見るものだった。 人間の眼とは比べものにならない緻密さをもって、主観的に対象を認識したり区別したりすることもなく、光のもとであらゆるものを残酷なまでに平等に写し出す。それは、人間中心主義に基づく世界観を脅かすには十分すぎた。
だからこそ、人はこの機械的イメージの登場に深く魅了されると同時にそれを恐れ、なんとか飼い慣らそうと努めてきた。必ずしも自分たちが望むように世界を見てくれない、不都合なものまで見てしまうその眼を、自分たちが望んだ通りに世界を認識するツールへと変えようとした。今日のスマートフォンのカメラ機能には、そのために開発されてきたありとあらゆる機能がーオートフォーカス、自動露出補正、手ぶれ補正、フィルター機能などがーほとんどすべて流れ込んでいると言っていい。 私たちはいまや人差し指一本で、世界の見え方を自分の気に入るように瞬時に修正し、あるいは気に入らなければ瞬時に消すことができるのだ。そして「失敗」する権利はますます遠くなってゆく。
そうであってもなお、写真が異物としての相貌をあらわにする可能性が完全に消えたわけではない。 むしろ写真は、依然として異物でありつづけている。これまでに地球上で撮られた写真の総数はおよそ三・五兆枚とも言われているが、人はせいぜい百年程度しか生きられないのだから、その大半は遅かれ早かれ「詠み人知らず」ならぬ「撮り人知らず」として、引き出しの奥やハードディスク、インターネット空間のなかを亡霊のように漂う宿命にある。それらがいつ、どこで、誰が、なぜ撮ったかということを正確に知る由もない。
だから写真はまるで答えのない推理小説のように、永遠に人を刺し、想像力や知的好奇心を掻き立てることだろう。どれほど切実な思いに貫かれた一枚であろうとも、あるいは逆に撮影者や被写体の記憶にすらない一枚であろうとも、見る者はいつでもお構いなしに想像し、読解し、その細部に酔いしれる。まるで永遠に繰り返されるゲームのように。
その行為の甘美さはときに、他者の領域へ土足で踏み込むことに繋がる。
(中略)
一体誰が一枚の写真の真実を完全に知りえるだろう?どのような写真であれ、そのなかには永遠に知り得ない地点が存在する。写真を見ることは、そのなかにある永遠に知り得ない一点によって自分自身が照らされることでもある。
写真の前で立ち止まり、つかのま言葉を失う者は誰であれ、すでに写真によって傷ついている。そして変容した時間のなかで、その回復の途上で導かれた言葉や行動が「写真」からどれほど遠く見えたとしても、むしろそれが期待される場所から遠く見えれば見えるほど、その営みは一つの尊さを湛えてここにたち現れるだろう。私たちにできるのは、傷を負い、みずから逸脱せざるを得なかった人びとの声に、その理由を問うことなく耳を傾けつづけること、それに尽きる。