The Cultural Contradictions of a New Elite or Meritocratic Hubris

2024.11.07


In recent decades, the divide between winners and losers has been deepening, poisoning our politics, setting us apart. This divide is partly about inequality. But it's also about the attitudes toward winning and losing that have come with it. Those who landed on top came to believe that their success was their own doing, a measure of their merit, and that those who lost out had no one to blame but themselves.

This way of thinking about success arises from a seemingly attractive principle. If everyone has an equal chance, the winners deserve their winnings. This is the heart of the meritocratic ideal. In practice, of course, we fall far short. Not everybody has an equal chance to rise. Children born to poor families tend to stay poor when they grow up. Affluent parents are able to pass their advantages onto their kids.

The ideal itself is flawed. It has a dark side. Meritocracy is corrosive of the common good. It leads to hubris among the winners and humiliation among those who lose out. It encourages the successful to inhale too deeply of their success, to forget the luck and good fortune that helped them on their way. And it leads them to look down on those less fortunate, less credentialed than themselves. This matters for politics. One of the most potent sources of the populous backlash is the sense among many working people that elites look down on them.

It is also time for a moral, even spiritual, turning, questioning our meritocratic hubris. Do I morally deserve the talents that enable me to flourish? Is it my doing that I live in a society that prizes the talents I happen to have? Or is that my good luck? Insisting that my success is my due makes it hard to see myself in other people's shoes. Appreciating the role of luck in life can prompt a certain humility. There but for the accident of birth, or the grace of God, or the mystery of fate, go I.

This spirit of humility is the civic virtue we need now. It's the beginning of a way back from the harsh ethic of success that drives us apart. It points us beyond the tyranny of merit to a less rancorous, more generous public life.

Michael Sandel


現代の社会は彼らに有利なように構成されていて、近年の経済成長の果実の大半も彼らが享受している。そして、現在の米民主党の支持者は圧倒的にこの階層である。よってアル・ガルビによれば、米国における最も重要な分断は、こうした知識経済産業に関係する専門家と、それ以外の労働者階級や非白人を含む知識経済の「敗者」との間にあるということになる。米共和党の支持が強いいわゆるレッド・ステートであっても、都市部や大学町は多くの場合米民主党が選挙で圧勝するというのは、その州における前者が多く都市に住んでいるからに他ならない。

こうした人々は、人種や地域を問わず、ジェンダーや人権、環境問題といった文化的問題においては、ブルーカラーや零細自営業を含む「非」象徴資本主義者(田舎の貧乏白人はもとより、黒人やラティンクスなどマイノリティや移民もこの階層であることが多い)と比してますます進歩的になっている。宗教などの伝統や地理的制約から切り離された知的エリートにとっては、社会のリベラル化、グローバル化、AIを始めとした技術革新によって得られるもののほうが、失うものよりも圧倒的に多いからだ。

社会学者シャマス・カーンによれば、エリートの経済学は社会の他の部分とは逆方向に働く傾向があるという。エリートにとって好都合なことは、他の誰にとっても不都合であることが多いのである。先日取り上げたロブ・ヘンダーソンの贅沢品としての信念の議論にもあったが、移民などグローバリズムの負の側面は、「非」象徴資本主義者により多くのしかかるわけだ。言い方を変えれば、知識経済の専門家は、他の多くの米国人、特に労働者階級とは正反対の好みを持つ傾向がある。更に悪いことに、当のエリートは実際の選好よりも自分が「左」寄りであると思い込む傾向があるので、口先では社会正義の実現に意識が高い一方、 実際に身銭を切ったり汗をかいたりして格差を是正するということには本当はあまり興味がないのである。

キャンセル・カルチャーも結局は左右の問題というより、象徴資本主義そのものの病理なのである。2021年1月6日の米連邦議事堂襲撃事件のように、「非」象徴資本主義者が暴力に奔り、そしてそれを特に問題視しないというのは、このことの合わせ鏡だろう。また、これがドナルド・トランプのようなポピュリストの伸張を可能とした最大の原因といえる。トランプは、下品で嘘まみれではあっても、彼らに伝わる表現で語りかけたのだ。

米国のポピュリズムと象徴資本主義のたそがれ — Masayuki Hatta


ヘンダーソンが挙げている「贅沢品としての信念」の具体例としては、

  • 警察は廃止すべきである(ディファンド・ザ・ポリス)。
  • 国境を開放し移民を入れるべきである。
  • 宗教は有害である。
  • 離婚やポリアモリーは個人の自由で問題ない。
  • 白人は白人であることで、非白人にはない特権を享受している。
  • トランスジェンダーは保護されるべきである。
  • 薬物は合法化されるべきである。
  • 人生における成功は、努力よりも偶然によるところが大きい。

といったものが挙げられる。ようするに最近の米国左派で流行っている、プログレッシブな思想だ。

ヘンダーソンによれば、この種の「贅沢品」をありがたがることで上流階級は、金持ちの世界で尊敬や社会的地位を得られる。しかし、こうした信念が実際に実行に移されたとして、それが引き起こすネガティヴな帰結は、上流階級には影響しない。悪影響は主に下層階級が負うのである。

贅沢品としての信念 — Masayuki Hatta