A Kindness That Harms - Kazuhisa Toba
いまの時代は、とにかく側然的な未来を嫌う。イレギュラーは混乱のもとなので、前もって整えておくのがやさしさだと言われる。しかし、これは諸刃の剣である。既に配慮しているんだから、あなたの方もこっちが不快にならないように配慮して、という目に見えない外圧が世間をすっかり覆っているのだ。私は、こういう趨勢で割りを食う人たちをマイノリティと呼びたい。事実は単に個人の心が蔑ろにされているだけなのだが。
いつも子どもの思考を先回りして、よかれと思って段取りを組み、道を整える。そのことを通して、子どもが未来に有していたはずのあらゆる可能性の芽を未然に摘んでしまう。たびたびそういう親を目撃するが、現代は、この親と同じことを競うように皆でやろうとする「先回り社会」である。多様性を認めることや、子どもの可能性を信じることは、偶然性にさらされた突発的な出会いをそのままに許容しようとする努力のことなのに、偶然性に目をつぶって初めから安心社会を作ろうとしている。むしろ、そういう安心を担保するような「正しい設計」を多様性の意義と考える傾向さえあり、世間はそんな表面的なダイバーシティを「やさしさ」と呼んでいるのだ。
チャレンジというのは、そういうわからない未来に身を投げることであり、決して先回りして安定的な未来を獲得することではない。誰もがチャレンジをしないだけでなく、チャレンジの意味さえわからない時代になってしまった。
でも、チャレンジをしようにも多くの人がすでに傷つきすぎているのだろう。だから少しでも安心していたいのだ。子どもたちを見ていると、彼らはすっかりスマホにいいように使われている。24時間、LINEなどのSNSの反応に感情を左右される彼らは満身創痍である。そんな彼らが、風雨にさらされて傷がむき出しになった岩礁のように見えることもあるくらいだ。
しかし、そんな試練は子ども時代には必要なかったし、その傷はあなたの傷というより無意味の働なんだと言う大人がいないとダメだと思うが、大人だってもはや同じことになっている。むしろ無意味の傷を自分の傷と勘違いしてムキになっているのは大人の方で、彼らはSNSで、ある日は自分と同じ傷を負っている人に共感し、ある日は自分と同じ傷を負わせた誰かを感情的に攻撃する。そうやって傷を上塗りしながら自分の輪郭を確かめるせつなさ。
無意味の傷が、表面的なやさしさを呼び込むことで、傷とやさしさが虚しく回転し続けるメリー・ゴーラウンド。それが現代である。